神社おそうじ隊、見参! 隊長コラム


「神社おそうじ隊 見参!」

当初、その「おそうじ」という響きから、「神社をキレイにするの?」「拭いたり???」というニュアンスの質問を頂いたり、また実際に共に巡拝した折に「ホントに境内掃いたりするんじゃないんですね!」と、軽い驚きを伝えていただいたりということも、ありました。
まあ…こうした反応も当然予想できていたのですけれど。。。


ちなみに、名付け親は、実はボクではなく副長なのです。
特に、「見参!」は絶対に入れる!と、力(りき)入れておられたことを思い出します(笑)。


さて、このネーミングから連想されることといえば、やはり具体的な「お掃除」の場面で、その行為を通じて心身を清らかにしていくようなイメージ、というものがどうやら多いようです。
確かに、名称が決まった時を思い起こせば、ボクのアタマにもそうしたイメージが浮かんできたりしたことも…あります(笑)。

こうしたイメージが浮かぶことも、もしかしたらお寺などで僧侶の方々が為す「作務」のイメージがあるのかもしれませんし、早朝神職の方々が神社の境内を竹箒で掃く、という深層イメージの反映なのかも、しれません。

そして、ここで大切なことは、これらのイメージは誰に教えられるでなくごく自然に浮かび上がってくる、ということ。
ここに、ヒトの人たる由縁があるように思いますし、『神社おそうじ隊 見参!』では、こうしたココロの作用を大切に考えているのです。


『神社おそうじ隊 見参!』でいう「おそうじ」ということの意味とは、実際に参加していただき、共に参拝をしていくことで、ごく自然に体感していくもの。
事実、いくらコトバで理解しようと努めてもピンとこなかった方々も、一度参加していただいた後には、ほとんどの場合で自然と感得されています。
実際に神社に身を運び、社殿を前にして背筋を伸ばし頭を下げる…
…そうすると、ごく自然に何かを敬うかのような、どこか清らかな気持ちが誰に示されることもなく芽生えるもの。
『神社おそうじ隊 見参!』を開始して一年半、それまで神社などに参拝する習慣のなかった参加者の方であればあるほど、実感されることです。



また、『神社おそうじ隊 見参!』では、基本的な(カミサマへの)マナーは大切にしつつも、それ以外の面では堅苦しさや形式はなくし、シンプルなスタイルで参拝することにしています。
連綿と継承されゆく神社という神域はまた、ヒトの意識の顕れでもあります。
どのような姿勢で神前に立つのか、それは見た目ではなく、自ずと顕れるココロの姿を映し出しています。



そして、「いのり」。

「いのり」とは、純然たる想いの発露と、『神社おそうじ隊 見参!』では捉えます。
そこにおいて「カタチ」は必要もなく、誰もが自然にそれを為すに至るもの。

『神社おそうじ隊 見参!』でいう「いのり」は、「○○をお授けください」「○○がうまくいきますように」という、ご利益を期待した「お願い」を叶えてもらおうという発想とは、一線を画しています。
ここのところは大切なところでもあり、尚かつ『神社おそうじ隊 見参!』活動開始の、いわば「原点」とも相通じるところでもある関係上、この機会に少し解説をさせていただこうと、思います。



…先ほどお伝えしましたように、「いのり」とは純然たる想いの発露。
それは「お願い」をする、ということではなく、「い=意=こころ」を「のる=宣る」、つまり自らのココロを宣言すること、と言い換えてもよいでしょう。

神社というのは、「いのり」の場であり、自らのスピリットと自然、宇宙との交流を織り成す空間。
そこに鎮座されているカミサマは、自然、宇宙とダイレクトにつながった、いわば具現化されたシンボル。
たとえば、同じカミサマでも、ある神社と別の神社では、そこに示される「ご利益」はちがっていたり、します。
また、同じカミサマを祀っていても、ある神社と別の神社では醸し出されているエネルギー、雰囲気はちがっていたり、します。
このような観点からすれば、そこに示される「ご利益」という限定条件は、いったいどれほどの意味をもつのでしょう。

自然、宇宙は、いついかなる時も生成と消滅、破壊と再生というプロセスを刹那ごとにくり返しています。
そのプロセスのなかで、アナタもワタシも、いついかなる時も生成と消滅、破壊と再生というプロセスを刹那ごとにくり返しています。
ヒトもまた大いなる自然、宇宙の反映であり、それゆえに例外なくヒトは宇宙そのものなのです。

そもそもの神道では、自然もヒトもカミも、分け隔てなくひと続き。
根源においてつながり合い、そのつながりのなかでアナタもワタシもいまここにいるのです。

そうすると、ヒトもまた例外なくカミでもあり、その身(カラダ)はその意識を乗せる社(ヤシロ)ともいえます。
一人一人、誰もが神社(カミなるヤシロ)、なのです。



昨今、現在ではやや下火になった観もありますが、「パワースポット」という言葉がメディアを賑わしています。
確かに、「場」というものにも性質があり、波動、気という観点からすれば「高い」「低い」や、「気持ちいい」「ヘンな感じ」という感覚を生起させるものでもあるでしょう。
また、「そこに行けば何かが変わる」というニュアンスがその響きには含まれていますので、「パワーもらいにいく」という軽い感じの方々から実際に自分が変わっていくという大きな期待を胸にそこを訪れる方も多くいるようです(「ご利益」を求める心性と、似たところがありますね)。

「神社」はやはり、その中心的な位置にあるようです。

また、「浄化」という概念から、神域とされる「場」や「土地」に積もり積もった負のエネルギーを浄める、というようなポジションの方々もいて、そういうことは古来行われてきたにせよ、なにやら最近は総体的に増えているようです。
その基本的なコンセプト自体は「お祓い」と一見変わらないようですが、「お祓い」は、「カミサマとの仲立ちとして神職が執り行う」ものですが、ここでいう「浄化」は、「ここのカミサマが弱っているから…」というようなポジションから、つまりヒトの立場からカミ、あるいはその神域を「浄化」する、ということのようなので、やはり「お祓い」とは異なりますね。

こうした「浄化」には、何か根本的に大きな矛盾があるようにも思えますが、さてさて…。。。



「いのり」とは、純然たる想いの発露、とお伝えしました。
それは、「ご利益」を求めるものでも、「何かを変えて」と願うものでも、「パワーがあるから」するものでも、「このカミサマを浄化してあげよう」という気持ちを必要とするものでも、ありません。

参拝させていただく、ということは、その「場」があり、そこに「神社」があるということ。
ということは、古来祀り続けてきた意識の連鎖、祀られ続けてきた意識の集積があり、そこにいまあなたのスピリットが顕現しているからこそ、参拝させていただくことができるということ。
そうした背景を、ココロで想い描いてみる…そうすると(たとえばボクの場合であれば)、「感謝」の気持ちがごく自然に湧き出てきます。

基本的なカミサマへのマナーというのは、形式だけの儀礼ではありません。
形式以前にある、もっとも根本的なココロにある、といえるでしょうか。




ヒトもまたカミなるヤシロ。
もしそうであるのなら、ヒトは神社という神域に身を運び、ただただ頭(こうべ)を垂れるという行為は、何を意味するのか?
そうしたこともホンの少しアタマの片隅に置きつつ、「いのり」を奉じてみてもよいかも、しれません。

そして、ひとりひとりはすでに内なる神性を宿した存在。
もしそうであるならば、誰もがそもそもパワースポット的な存在、ともいえるでしょう。
「パワーをもらう」という、どこかに自らを置き忘れた戯れ言に耳を貸すでなく、そうした神域や場、土地に自らの足でしかと立ち、そうすることですでにスピリットでの相互交流をしていることに、まずは想いを巡らせてみましょう。

神社という神域や、いわゆるパワーに溢れた場や土地というのは、そういうことを「想い出す」空間でもあるように、思います。



『神社おそうじ隊 見参!』は、副長、そして御参加頂く皆様とのコラボ的創造活動でも、あります。
その当初よりの「原点」にはこのような想いがあり、それらは「調和・協調・共生」という『プラネタリー・ワーク』全体を貫くメインコンセプトで表現されています。



何かを感じる、感じない。
そんなことはどうでもよいこと。

まずは、「いのり」を奉じてみる。
そこから、すべては始まります。





神社おそうじ隊、隊長 田村竜治

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神社おそうじ隊、見参!

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